生きる事、とはなんでしょうか
この世に誕生し、命に名が付き、
唯一無二の自分という存在がいる。
自分の意思とは関係なく
鼓動は鳴り、血は脈を打ち、絶えず身体は息をします。
それがたとえ、自分の気持ちとは関係なくても…。
自ら心を動かすから、『息』という字なんですね。
自分の心を感じるから、人は生きる意味を見出せるのでしょう。
生きるとは、息をする事なのかもしれません。
それは自分に合った息の仕方で、生命を維持すること。
無理したり、合わない環境に居続けたり、誰かの呼吸を自分の呼吸だと思い込んだり…
でも、本当に心地よい息の仕方を、人は知ってるんです。
忘れてしまっただけ、その場に適応し過ぎただけ。
本来の息を取り戻せば、自分の心は返ってきます。
自分のペースで呼吸をするから、鼓動は落ち着き、冷静を取り戻し、個としての息を吹き返すのです。
私は人生を通して、
何にも囚われない自分を大切にしてきました。
何かに囚われると、自分を見失ってしまうから。
誰かの為に生きようとすると、
「じゃあ、あなたの人生はどうなるの?」
と、人生のどこかで軌道修正が入ります。
それはホロスコープ等で自分を占った時も出てきていたことです。
「あなたは自分の人生を生きるために生まれてきた」
この世に生きる全ての人に言えることです。
私だけではありません。
この世で生きている人は皆、
自分の人生を生きるために生まれてきています。
大切な人のため、大切なものを守るため…色々理由があったとしても、そこに自分の幸せが伴うから、成立するのです。
自分の幸せが伴わなければ、どこかで崩れます。
自分のペースがあるから、人は息をすることが出来ます。
そして自分のペースが分からなくなることも、人生で誰しもが経験することでしょう。
それはなぜ起きるのか?
答えはシンプルです。
『自由』にフォーカスしてみてください。
その時あなたは『自由』を見失っていませんか?
国語辞典で説く自由とは、
《自分の心のままに行動できる状態。
思いどおりにふるまえて、束縛や障害がないこと。また、そのさま。》
とあります。
しかし語源を遡ると、福沢諭吉が仏教を元に解いた言葉であると分かります。
(以下引用)
社会の常識や身分などに縛られないことを福沢諭吉は「自由」と翻訳しました。
しかし、もともと「自由」とは「自らに由る」とあるように、自らの意志をよりどころにすることを意味した言葉であり、執着から解き放たれた状態である「解脱」を表すこともあります。
さらにあるサイトでは、
『自由とは自らの内側から湧き出てくるものだ』
と説いています。
(以下引用)
私たちは、外的な原因でうまくいかないことがあると「もっと自由ならいいのに!」と、外部に自由を求めがちです。
しかし、お釈迦さまの教えでは自由とは「自らに由(よ)る」もの。
つまり、自由は内側から湧き上がるものです。
この観点からすると、「自由」は外部の世界が私たちに与える何かではなく、自分自身の内側から生まれ出る真実の理解と、それによって得られる深い平和を表しています。
(中略)
自分以外から与えられる「自由」を求めるのではなく、自分の内側から湧き上がるものに「自由」を見いだす方にシフトできれば、心が穏やかになれるのではないでしょうか。
▼引用元(とても素晴らしいサイトなので是非見てください)
あなたは今、自分のペースで息が出来ていますか?
自分の自由を、忘れていませんか?
あなたはあなたらしくいていいんです。
あなたらしくでしか、居られないのです。
人には限界があります。
無理をして呼吸を合わせていても、どこかで爆発するんです。
それは、本来の自分が息を吹き返したがっているから。
あなたの心が、「生きたい」と叫んでいるから。
自分何かに囚われていないか、縛られていないか、執着していないか、もう一度振り返ってみてください。
あなたの幸せは、外部が要因となって決められることではありません。
あなたは自由です。
誰にも縛られることの無い人生を送ることができるのです。
他人と共存し合うこの人生。
自由とは、傍若無人に振る舞うことでありません。
自分の自由を、誰かの自由とともに、支え合い生きていくのです。
最後に、サイトに載っていたとても素敵な言葉を引用します。
私たち自身も他者も、皆、生と死の法則に服し、互いに依存し合って生きている存在です。
だからこそ、私たちは他者を慈しみ、
無私の愛を実践できるという、
仏教的な視点が社会に必要なのではないかと考えています。
この言葉が、皆様の生きる道の道標となりますように。
メルクリアス鸞